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痛覚

先日仕事で右腕を強く痛めてしまった。

日中の忙しさと体力のなさのために病院には結局行くことはなかったが、おそらく打撲か捻挫だと思われた。ひたすらに痛かったので骨折を疑ったが、腫れもしないし徐々に落ち着いてきたのでそれはないということになった。

 

仕事も繁忙期なのでこの程度じゃ休んでられないと、市販の鎮痛内服薬や湿布薬で対応した。鎮痛薬はいわゆる頭痛とかに使う痛み止めで、外傷による痛みに使うことは初めてだった。

 

なんとなく、頭痛や腹痛による痛みと怪我による痛みはジャンルが違うと思っていたので、そのジャンルを超えた鎮痛薬は果たして本当に効くのか懐疑的であった。結果としてよく効いてくれて、その後今日に至るまで仕事の大きなサポートの一つであった。

 

ふと、痛みを消すということについて考えた。

痛みというものは自分の身体における異常信号の一つであり、痛みが出ている部分に関してはなんらかの治療および休養が必要であるということを教えてくれるものだ。

鎮痛薬によって痛みを止めるということは、それら身体の警告を無視し、それどころか信号の発信も止めるようなものだとふと思った。薬が切れるとまた信号が発信され始めることを考えると、アラームとスヌーズ機能の関係にも似ているとも感じた。

 

自分の不注意で怪我をして痛みを引き起こし、自分の都合でその痛みを消して身体からの信号を閉ざす。終始自分に優しくない生活だなと思ってしまった。

しかしこういうことを考えられるのは薬が効いている、つまり痛みを感じていない時であり、つまり余裕があるから考えられるのだ。やがて薬が切れ始め徐々に痛みが出てくると悠長なことは言ってられず、痛みを消すために薬を飲んだり貼ったりする。

 

哲学めいた考えの全ては、自分は悩みの当事者でないからこそ考えられるのかな、と考えを巡らせた。

悩み迷っている本人はその苦悶からなんとか抜け出すことをまず考えるだろう。

なぜ迷うのか?悩むのか?そんなことを考える余裕がある人間は、結局の所その迷路を上から見ている傍観者に過ぎないのではないだろうか。

 

 

今回の怪我で始めてロキソニンという強めの鎮痛薬を使った。

あまりに効き目が強すぎるので、かえって身体に不安をかけさせるな…といらぬ心配をしてしまった。